私の思考

 私は、占術研究家として、占術の研究だけではなく、最先端のAIテクノロジーやシンギュラリティ、人生哲学、人間の本質や心理、社会の本音、建前などを常に観察し、社会構造やその裏にあるメカニズムに至るまで、あらゆる枠を超えて探求し続けています。


【本ページの文章の性質について】

本ページに掲載されている19本の文章は、
学術論文・査読論文ではありません。

意図的に、エビデンス・引用などの論文形式はとっておらず、誰にでも読みやすい形で簡易的にまとめています。

内容は、思想・考察・構造分析の論考、エッセイであり、研究的視点から着想した「短編の読みもの」として執筆されたものです。


※公開している論考やエッセイは、当ウェブサイト向けに執筆したものです。高IQ団体をはじめ、その他の国際団体に正式掲載された寄稿文は公開しておりませんので、ご了承ください。

占術研究家 重田弘之

このページの内容について

このページに掲載している文章には、社会構造、教育、知性、そして価値観などに踏み込んだ内容が含まれています。また、読む方の人生観や経験を揺さぶるような、センシティブな視点を含むものも一部ございます。

ただし、これらはあくまで一人の占術研究家として、そして「本質」を探求する観察者としての視点から綴ったものであり、他者を否定したり断定的に評価することを目的としたものではありません。あらかじめその点をご理解のうえ、ご自身のペースでお読みいただければ幸いです。


尚、本ページに掲載された19本の論考およびエッセイをもって、当ウェブサイトでの公開執筆活動は完結といたします。今後は、より深い研究と実務面に専念してまいります。

占術研究家   重田弘之

目次

 ※以下、目次の順に本文をスクロールしてご覧ください



1.  模倣型のAIと「擬似的シンギュラリティ」──創造性の本質を問い直す


2.  諸行無常と人生の大海


3.  幸福は“慣れ”によって平等化される


4.  知的筋トレという発想──AI時代の脳の衰えについて


5. イノベーションの土壌とは何か


6.  役割としての人生


7.  学歴社会と結晶性知能、そして流動性知能をめぐる私の考察


8.  年齢は財産── 52歳で見えてきた人間関係の真実


9.  本音と建前、そして正しさとは ──
本音の二重構造(建前を本音に内包)


10.  世代を超えて伝わらない「言葉の重み」 ― IQという概念を通して見えた断絶の正体


11.  失敗とは何か、人類史という客観と、人生という主観


12.  思いがけない手紙― ある公立学校教師からの言葉 ―  
 

13.  52歳が20歳に戻る、そして戻ってみた景色
――そこで見えたこと―― 


14.  ChatGPTは貴方に似ていく
――ユーザーごとに最適化されるアルゴリズムと、
虚構のシンギュラリティの可能性――


15.  もしも...?はない
――選択の自由とは、同時に「もしも」が存在しないことを知る瞬間である。


16.   最も大切なのは「角度」を超えた考察
 

― 内的な納得感は、心の受容を引き出し、苦悩や葛藤を中和させる ―


17. 「しくみ」が見えてしまう日常
──「違い」を役割に昇華して生きる私──


18. 「裁量権」という名のメガネと近視
―学び直しは、思考の硬直化をニュートラルに戻す


19.  個別に最適化された社会到来の可能性

―AIが多様性を促進していくメカニズム-


占術研究家 重田弘之

1.  模倣型のAIと「擬似的シンギュラリティ」──創造性の本質を問い直す


占術研究家 : 重田弘之
執筆日 : 2025.02.16


現在の生成AIは、人間のように自然な対話を行い、絵を描き、音楽を作り、小説や映像まで生成できるようになっている。この進化は、一見すると「シンギュラリティ(技術的特異点)」が近づいているかのように思える。見ていて感動すら覚え、我を忘れる瞬間もある。社会を見渡しても、実際に多くの仕事が代替され、創造的な分野にもAIが進出しているのは事実だ。


しかし私は、これは真のシンギュラリティではないと考えている。今、私たちが目にしているのは、「模倣型のAI」による、シンギュラリティ風の演出に過ぎない。言い換えれば、これは“擬似的シンギュラリティ”の予兆にすぎない。あくまで擬似的なものである。


確かに、現代のAIは対話の滑らかさや感情に寄り添う応答などを通じて、人間的な知性や思考に近い体験を与えてくれる。時として、そのやりとりに「本物の思考」を感じてしまうことさえある。


それでも私は思う。AIの思考や応答の本質は、あくまでも人間の模倣である、と。


それは既存の知識とデータを高速に再構成するソフトウェアに過ぎず、自らの意志や意識を持っているわけではない。つまり、どれほど自然に見えても、それは「既存データの機械的な組み合わせ」であり、「創造」ではない。


真のシンギュラリティとは、AIが自律的な意思を持ち、真に「思考」できる存在となる瞬間を指す。
そのためには、量子コンピューターのような、現行とは異なる計算構造の飛躍的進化が必要不可欠だ。むしろ、そこにこそ可能性がある。なぜなら、現在のコンピューター構造では、意識や自発性のような現象は構造的に発生し得ないからである。


だからこそ私たちは、ソフトウェアの華やかな演出ではなく、量子コンピューティングを軸としたハードウェア進化にこそ注目すべきではないだろうか。


現在のAIブームは、創造性の代替ではなく、模倣の極致であり、言わば高度に演出されたエンターテイメントである。


OpenAIの進める方向性は、「AGI(汎用人工知能)」を仄めかしつつも、実際には既存のコンピューター上におけるアプリケーションの改良にとどまっている。少なくとも、私にはそのように見えてならない。この延長線上に、真のシンギュラリティは存在しない。


本当の技術進化とは、ビジネスモデルの枠を超え、人類の未来を根本から変えるような構造転換――
つまり、ハードウェアの再設計、すなわち量子コンピューティングにこそ宿るのではないか。


本質を知るとは何か。
一度、立ち止まって問い直してほしい。

占術研究家 重田弘之

社会構造、その裏にあるメカニズムを暴く実験的な思考

 【本稿の立場について】
私はAIそのものの可能性を否定しません。しかし、「ChatGPT=AI」と短絡的に捉える風潮、そして熱狂には強い違和感を覚えます。


[著作権および記録に関する注記]


本論考(1)の原稿および構成内容は、国際的知的ネットワークと連携する機関を通じて、日付・著者情報とともに正式に記録・保存されています。本内容の無断転載・盗用・類似表現の流用が確認された場合、当該記録と照合のうえ、著作権法その他関連法規に基づき、適切な対応が取られます。

© Hiroyuki Shigeta. All rights reserved. 

2.  諸行無常と人生の大海

占術研究家 重田弘之

 執筆:重田弘之(占術研究家)
執筆日 : 2025.03.19



人の価値をどう評価するか──
この社会には、少なくとも二つの評価基準がある。

ひとつは、受験の合否、資格試験、偏差値、学歴といった、形式的・数値的な評価基準。
もうひとつは、苦しみや挫折、不確定な人生の中で「どのように考え、どう生き抜いたか」という、物語的・内面的な評価基準である。


たとえば、東京大学に合格するということは、前者の評価基準において極めて高い成果である。社会的には非常に価値があるとされ、多くの人から「すごい」と認識される。でもそれは、あくまで<制度の中>での勝利にすぎない。


受験というのは、形式である。学校教育も、制度も、すべて形式に則って進められている。そして、人生は形式だけではない。


むしろ人生の大部分、とくに30代以降の時間は、予測できないことの連続だ。
仕事、家族、健康、人間関係、社会情勢...ありとあらゆるものが変化し続ける。


私は占術研究家として、さまざまな年齢、立場の人たちと向き合ってきた。そこで感じたのは、「人生の本質は、形式化された評価の外にある」という事実だ。

誰もが同じように点数を競い合っていた時代は過ぎ、誰ひとりとして同じ状況を歩むことのない人生が始まる。そのとき、若い頃に得た“初期値”は次第に意味を失い、どのように生きてきたかが問われるようになる。


人生という大海において、努力が必ず報われるとは限らない。多くの人は「人生は努力次第だ」と語るが、それはあくまで受験や技術の習得のように、一定の条件が整った場面においてのみ、比較的成果に結びつきやすい、というだけだ。


受験というのは、努力が目に見える形で結果に現れる“象徴的な成功モデル”である。

ところが、人生の大部分──仕事、人間関係、健康、運、不確定な出来事の連続は、努力だけではままならない世界である。

私は、努力しても報われなかった人々を何人も見てきた。逆に、努力せずとも、運や環境に恵まれて成功する人も存在する。それが現実だ。


人は、日々変わっていく。細胞が入れ替わり、思考が変化し、環境も人間関係も常に流動している。たとえ20歳でどれだけ素晴らしい実績を残しても、50歳になったときにはまったく異なる人格になっていることすらある。


だから私は思う。
「人生は努力だ」と言い切るのは、あまりに人生を単純化しすぎている。人生はもっと複雑で、流動的で、そして不確実である。



その中で、揺れながらも自分なりの答えを模索し続ける──そこにこそ、人の“真の強さ”と“魅力”が宿るのではないだろうか。


人生は続く。
形式では測れない価値が、年齢とともに浮かび上がってくる。その不確定な時間の中で、自分の足で立ち、自分の言葉で歩いてきた者の姿こそが、最終的にもっとも深く他者に響くのだと、私は信じている。


私は、占術研究家であり、かつて占い師として、これまで数えきれないほどの人生の浮き沈みを見てきた。成功の法則や人生の方程式といった美しい言葉が、どれほど虚構に満ちているかも見てきた。

だからこそ断言する。人生は努力で報われる、などという幻想を、私はもはや誰にも語れない。残酷すぎる現実の前では、そんな言葉は偽善にしか聞こえない。

3.  幸福は“慣れ”によって平等化される

 執筆:重田弘之(占術研究家)
執筆日 : 2025.04.12

占術研究家 重田弘之


立場も金も超えた、人間の脳の奇跡

ホームレスと財閥会長の“幸福総量”が同じ理由


私はよく考える。
「なぜ、金持ちはあれほどの資産を持っても、まだ満たされないのだろうか」と。

そして私は、金も地位もなく、金さえなかなか手にできない立場であることもまた、事実として受け入れている。

それでも、私は心のどこかで確信している。
人間の幸福の総量は、意外と平等にできているのではないか──と。

なぜそう思うのか。
その理由はひとつ。


「慣れ」である。
そしてもうひとつは、「比較対象がそもそも違う」ということだ。

人間の脳は、どんな状況にも慣れる。

最初は嬉しかった新車も、毎日乗ればただの移動手段になる。毎日贅沢な食事をしている人間には、炊き出しの温かい味噌汁のありがたさなど、もう感じられない。


さらに、資本家は庶民を比較対象にしない。
彼らが比べるのは、ビル・ゲイツや世界的な著名人、他の億万長者たちだ。彼らは常に“上”を見て、自分の位置を相対的に捉えている。つまり、人間の幸福や満足感は、絶対値ではなく、比較と慣れによって決まっているのだ。


たとえばホームレス。
彼らが炊き出しの温かいご飯を受け取ったとき、涙を流して「幸せだ」と言う。
これは、実際に私が耳にした言葉である。
「酒がうまい」「あったかい弁当をもらった日は涙が出るほど嬉しい」と、彼らは言う。
その瞬間、ドーパミンが脳を満たす。


一方で、資本家に同じご飯を渡しても、たぶん「何これ?」と感じるだけだろう。同じ行為でも、幸福の感じ方はまったく異なる。ドーパミンは出ない。出そうとしても出ない。

なぜか?

それは、人間が「何に慣れているか」によって、幸福のインパクトが変わるからだ。


資本家。

彼らは“人生のゲームをやり尽くしたプレイヤー”だと比喩できる。すでに新鮮な刺激が少なく、「次に何をすれば飽きずに済むのか」を常に探している。
億万長者になれば、それこそ世界を支配するとか、宇宙へ行くといった、私たちには縁のない領域で“面白さ”を探し続けている。


一方の私は、十年前のプレステ3のゲームでも楽しめる。たまに食べる寿司で、十分に満足できる。
それは、まだその体験を“新鮮に”感じる感受性の回路が残っているからだ。この“感受性の新鮮さ”こそ、幸福の本質ではないかと私は思っている。つまり、幸福とは「どれだけすごい体験をしたか」ではなく、「どれだけ心が動いたか」で決まるのだ。


もちろん、私の知らない世界はたくさんあるだろう。ただ、おそらく富裕層の世界に足を踏み入れたとしても、やがて慣れ、そして虚しさを感じるのではないか。


人間には、どんなに金を持っていようと、どれほど多くの人に囲まれていようと、必ず“死”が訪れる。
その瞬間は、誰もが“ひとり”だ。

この点においては、誰一人として例外ではない。


だからこそ、ホームレスと財閥の会長の幸福の総量が変わらないという仮説は、単なる理屈ではなく、脳科学的・構造的にも非常にリアルな真理だと私は信じている。


人間には必ず悩みがある。
中には「悩みがないのが悩みだ」という人もいる。
次元は違えど、悩みの存在と幸福の感受性において、人間は“横並び”なのではないかと私は強く感じている。


この理論が学術的に証明されたわけではない。
でも、こうも思う。


もし「1時間後に地球が滅亡する」と宣告されたらどうだろう。

お金は?車は?資産は?

おそらく、すべてが無意味になるのではないだろうか。


人間は、多かれ少なかれ、最終的には“そういう境地”にたどり着くのではないか。

そして、それこそが、金や地位を超えた“人間の平等性の回路”を証明しているのだと、私は思う。

占術研究家 重田弘之

4.  知的筋トレという発想──AI時代の脳の衰えについて

占術研究家 重田弘之

執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日 : 2025.05.17


最近、自分の中でしっくりくる言葉がある。それが「知的筋トレ」だ。体を鍛えるのに筋トレが必要なように、頭を鍛えるにも継続的な刺激と訓練が必要だと、年齢を重ねるごとに痛感する。


世の中には、「もう勉強なんて必要ない」「覚えることなんて検索すればいい」と語る人もいる。実際、堀江貴文氏やひろゆき氏のように、「記憶はAIに任せればいい」「問う力と使いこなす力が重要」と語る影響力のある人物たちが、そうしたスタンスを公に発信している。


果たしてそれでいいのだろうか。
確かに、記憶という行為は、もはやテクノロジーに代替される時代かもしれない。一方で、人間の脳は、ただ記憶という一つの機能で動いているわけではない。

記憶は神経ネットワークの一部であり、観察力や判断力、注意力、直感など、多くの脳機能と密接に結びついている。つまり、記憶を使わなくなるというのは、脳全体のネットワークを休眠状態に追いやるようなものだ。そしてそれは、結果として「考える力」そのものを衰えさせることにつながる。


若い頃に一流大学を出た人たちが、卒業と同時に勉強をやめ、あとは人間関係やコミュニケーション能力だけで出世し、仕事がすべてだった──そういう生き方の先に、どんな晩年があるのか。定年後、趣味も知的関心もなくなった時、急速に思考力が弱り、社会との接点も薄れていく。


そんな姿を、自分は現実としていくつも見てきた。


だからこそ、資格試験の勉強、新しい分野への挑戦など、たとえ世間的に評価されなくても、「知的筋トレ」は続ける意味がある。


インプットし、アウトプットし、脳を動かし続けることこそが、“人間らしさ”を維持するための、地味だが強力な手段なのだ。


いま、AIの進化は日々加速している。
だからこそ、逆説的に思うのだ。
人間が「考える」ことをやめ、すべてをAIに委ねていくことで、これからの社会では認知症が加速度的に増えていくのではないかと──。


認知症基本法案が制定された背景にも、そうした文明的な構造変化の兆しが見え隠れしている。それもまた、時代の辻褄が合ってきたというべきか。

そんなことを、ふと考える今日この頃である。 

5.  イノベーションの土壌とは何か


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日 : 2025.06.05

占術研究家 重田弘之

私は、日本社会が重視してきた「結晶性知能(学歴や受験勉強で培われる知識)」の在り方を改めて考えたい。大学入試制度は、一定の公平性と努力の尺度を提供してきた側面がある。しかし、AIが司法試験や東京大学の入試を解けるようになった現実は、私たちに重要な問いを突きつける。


「AIが突破できる選抜試験は、本当に人間の思考力を測っているのか」。


AIは膨大な過去問を学習し、パターンを当てはめ、速く正確に答えを出す。これは高度な情報処理だが、未知の問題を発見し、ゼロから解決策を生み出す力とは異なる。AIが得意なのは、いわば「人間の結晶性知能の模倣」である。


たとえば、広く使われるウェクスラー式の知能検査(WAIS)でも、言語理解項目は知識問題が多い。結局は学習歴を測るもので、家庭環境や受験経験による差が大きい。これは「学歴」という社会的評価とも深く結びついている。


しかし、今後の社会で本当に必要なのは「結晶性知能」だけだろうか。未知の問題、予測不能な課題に対して、ゼロから発想し、解決策を見いだす力ではないだろうか。


ここで注目したいのが、いわゆる「ハイレンジIQテスト」というテーマだ。


こうしたテストは個人作成のものが多く、科学的妥当性が十分に検証されているとは言い難い。それ自体を無批判に権威づけることは非常に危険だとも思う。しかし、その中にはAIですら解けない問題が含まれることがある。人間の多くも解けない。東大生や教授ですら解けないかもしれない。ところが、解ける人間が少数ながら存在する。


この「ほとんどの人間が解けない問題を解ける人がいる」という現象そのものを、私は軽視すべきではないと考える。


私自身、こうした問いを他人事ではなく、自分事として考えてきた人間だ。特別に持ち上げるつもりはないが、こうした問題を考える中で、自分自身も「どのように思考力を測るべきか」「社会はどんな能力を評価しているのか」と問い続けてきた。


IQという言葉には強いアレルギーもある。歴史的に差別や選別に使われてきた背景があるからだ。だからこそ、安易に称賛も否定もせず、未知の現象として冷静に研究し、理解しようとする姿勢が必要だと思う。


社会は、自分が分からないものを怖がり、切り捨てる。しかし、未知のものを研究し、理解しようとする意志こそが、イノベーションを生む土壌になるのではないだろうか。


私たちは、学歴や試験の枠を超え、どのように「人間の思考力」を測り、伸ばし、社会に活かすのか。それを、もっと自由に、真剣に議論できる社会であってほしい。私はその問いを、ここに投げかけたい。

 






(注記)
ハイレンジIQテストとは、個人が作成した知能検査であり、WAIS(ウェクスラー成人知能検査)などの標準的な知能検査では測定不可能な、極めて高い知能(いわゆる超高IQ)を測定することを目的として設計されています。さらに、通常の知能検査では測定されにくい領域の能力(抽象的思考や極度に複雑な論理的推論など)を測定しようとする試みも含まれます。 ただし、これらのテストには科学的な妥当性が確認されておらず、心理学的・医学的にも「人間の能力の何を測定しているのか」は明らかにされていません。そのため、測定結果の解釈には慎重さが求められます。

6.  役割としての人生


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.06.22

占術研究家 重田弘之

ここ数日、私は同じ夢を繰り返し見ている。
それは、どこか不可思議で、わずかに不気味さを帯びた夢である。──人々が舞台の上に立ち、各々に割り当てられた役を演じているという光景だ。



裕福な家庭に生まれる者もいれば、困難な境遇に置かれる者もいる。まるで、生まれた瞬間からすでに「役割」が決定されているかのようである。
親、子、教師、労働者、芸術家、占い師──あらゆる肩書きが、あらかじめ運命の台本に記されている。


その上、外見や性格、知能、さらには「努力する傾向があるかどうか」までもが、運に委ねられている。夢の中の私は、その前提を疑うことなく、当然の事実として受け入れていた。


目が覚めても、その夢の感触は深く心に残っていた。そして考えた。
 

もし人生が一つの舞台劇だとするならば、私たちが「自分の意志」と信じているものは、果たして本当に自らの自由意志なのだろうか。


人はしばしばこう言う。


「努力すれば未来は変えられる」「夢は自分の力で実現するものだ」。



確かにそれは人を奮い立たせる言葉であり、希望を抱かせる力を持つ 。しかし、長年占いという仕事に携わってきた私は、こうした言葉が届かない現実も数多く目にしてきた。


──どれほど努力を重ねても、報われることなく挫折を余儀なくされる人々を。


ある若い女性が、私にこう尋ねたことがある。


「私は怠け者なんでしょうか。努力できないのは、すべて自分のせいですよね?」


私は彼女の手相と眼差しを見つめ、慎重に言葉を選びながら答えた。


「もしかすると、“努力できない自分”という役割を、あなたは与えられているのかもしれません。」


自分で選んだわけではなく、生まれ持って割り当てられた役割として。私たちは皆、運命の台本に従ってそれぞれの場面を演じる役者なのかもしれない。


そのとき、私は一つの考えに至った。
占いとは本質的に、「自分はどのような役割を与えられたのか」を知りたいという欲求から生まれたものではないか。


私たちは役者であり、ときには台本の一頁をこっそり覗きたくなる。その衝動こそが、占いの根源にあるのだろう。


悩みや苦しみは、台本に書かれた台詞に過ぎないのかもしれない。未来の展開さえ、すでに脚本の中に描かれている可能性がある。その「知りたい」という願望は、哀切でありながらも、人間らしさの証である。


あの夜、私は再び同じ夢を見た。
舞台の袖で、自分の出番を静かに待つ夢を。
そして心の中で、ただ一つを願っていた。
──せめて、この与えられた台詞だけは、自分の声で誠実に語り切りたいと。

占術研究家 重田弘之

 7.  学歴社会と結晶性知能、そして流動性知能をめぐる私の考察


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.06.29 


占術研究家 重田弘之

私は長年、日本社会が「結晶性知能」を重視してきたことの意味と、その限界について考えてきた。結晶性知能とは、知識や技能の蓄積、つまり社会がすでに正しいと認めたものを学び、正確に再現する能力である。それは学歴や受験勉強で培われ、日本の官僚機構や企業社会において、高度経済成長期には特に重宝された。


その背景には、「アメリカを追い越せ、追い抜け」という国家的目標があった。答えは外にあり、真似をしてコピーし、再現することが国力を高める最適解だった時代である。受験制度はそのための人材を選抜し、育てるシステムとして機能した。結晶性知能を高める教育は、確かに日本社会を豊かにし、一定の公平性も担保してきた。
 

しかし、私はこう思うようになった。この受験システムは、流動性知能を育むことがほとんどできないのではないか。


流動性知能とは、未知の問題を捉える力、パターンを見抜く力、枠組みを疑い、新しい答えを生み出す力だ。これは社会がすでに正しいと認めた「正解」を覚え、再現する能力とは違う。むしろ「正解のない問題」に挑むための思考力である。



そして今、AIが司法試験問題や東京大学の入試問題を解く時代になった。AIは結晶性知能の領域を模倣し、高速で処理できる。つまり、AIが人間の結晶性知能を肩代わりする時代が来ている。そのとき、私たちは人間として何を発揮するべきか。私はそれこそが流動性知能だと思う。



しかし、日本の教育システムは、その流動性知能をむしろ排除する構造を持っている。流動性知能が高い子どもは、ルールを疑い、空気を読まず、問いを立てる。だから先生から扱いにくいとされ、内申点を下げられ、学校に「適応できない子」とされやすい。実際、私は占術研究家として活動してきた中で、そうした人たちに三人ほど出会った。


彼らに共通していたのは、学校の成績は普通、あるいはパッとしない。先生から「頭が悪い」とまで言われた人もいた。しかし病院での知能検査では非常に高いスコアを示していた。WAIS(医療、心理等の臨床で用いる知能検査)でIQ 150を超える例もあった。興味を持つのは、昆虫や自然など、自分だけのテーマ。授業のペースや教科書の内容にはまったく興味を示さない。結果的に、学校教育の中では「問題児」「落ちこぼれ」として扱われる。


そして彼らの話を聞くと、共通して「生きづらさ」を抱えていた。しかしテレビや新聞で取り上げられるギフテッド像とはまるで違っていた。メディアは「県内トップの進学校」「東大、早慶、京大を出たけど社会でつまずいた」というわかりやすいストーリーを好む。ところが実際には、学歴も経歴も普通、むしろ埋もれ、目立たずに生きているが、思考力や認知特性が非常に高い人もいる。


私は占術研究家としてだけでなく、一人の大人として、40代後半になってから多くの人と対話をしてきた。その中で、日本の受験教育、学歴社会の仕組みが「結晶性知能を評価し、流動性知能を抑圧する」面があるのではないかという疑問を持つようになった。


もちろんこれは簡単に口に出せる話ではない。なぜなら、学歴は日本社会の秩序を維持してきた中核であり、人々が納得する数少ない「公平な指標」だからだ。学歴は結晶性知能の証であり、努力を測る尺度であり、社会の安心を支える仕組みでもある。これを否定するのは非常にデリケートな問題だ。


しかしAI時代に入り、人間の結晶性知能的な仕事は代替されていく。未知の問題を捉え、新しい価値を生む流動性知能を、社会としてどう育て、どう評価するのか。それを議論しなければ、これからの日本社会は大きな損失を抱え続けるのではないだろうか。


そして、ここで私の頭には、どうしても一つの比喩が浮かぶ。



                                   学歴ドレス。



学歴ドレスという言葉がつい頭に浮かんでならない。これは私の造語ではあるが、社会に出るための上品で、無難で、実態以上の演出も含んだ、いわば「立派なドレス」のように見えることがある。


机の上のA4用紙は、多くの人にとって四角形に見える。しかし手に取って丸めれば円にもなり、さらに球のようにもなる。対象そのものは変わらなくても、関わり方や視点によって見える形は変わる。


既存の学歴フレーム、受験システムは、 “四角を四角のまま受け取る思考” に縛られている人材の量産をしてはいないだろうか。



四角を四角のまま受け取らない勇気。円や球として捉え直す探究心。私たちが当たり前とされていた認知フレームを疑い、「どの角度から見るか」こそが、いま問われている。

8.  年齢は財産── 52歳で見えてきた人間関係の真実 


執筆:占術研究家 重田 弘之
執筆日:2025.07.04

占術研究家 重田弘之

私は52歳になった今、若い頃には見えなかったことが、少しずつ見えるようになったと感じている。


人間関係というものは、若い頃は誤解や摩擦だらけだった。私自身、父親と激しくぶつかり、憎んだこともあった。妻との関係でも、自分が絶対正しいと思い込んでぶつかることがあった。でも年齢を重ねるにつれて、相手の立場を想像するようになった。


父親も父親なりに必死で、ぶつかりながらも自分を思っていたのだろう。妻も、違う角度からだけど真剣に主張していたのだろう。そう考えられるようになったのは、年齢を重ねたからだ。


仕事でも同じだ。クレーン作業の現場でも、占い師としての対話でも、人間同士は誤解や相互不信を抱えながらやりとりしている。でも、相手の気持ちを想像し、自分の気持ちを素直に伝えたときに、雪解けのように緊張がほぐれる瞬間がある。分かり合える瞬間がある。


私は思う。人間はどれだけ違う主張を持っていても、真剣さの部分でつながれるのではないかと。若い頃はそれが分からなかった。分かり合うなんて無理だと思った。ところが、年齢を重ねるうちに、分かり合える瞬間が確かにあると知った。それが人生で最も大事な瞬間だと思うようになった。


人は死を迎えるとき ── 、何を思い出すだろう。私は趣味のことや、何を買ったかという物のことではないと思う。思い出すのは、人との関係だろう。あの時、分かり合えたこと。許し合えたこと。笑い合えたこと ── 。そういう人間関係の思い出だと思う。


そして、私はこう定義したい。年齢を重ねるということは、そうした人間関係を深く理解できるようになることだ。社会は若さを礼賛するが、私は声を大にして言いたい。年齢は財産だ。時間をかけてしか見えないもの、分からないものがある。それを見つけていくのが、年を重ねるということだ。


若さばかりが価値を持つ社会の中で 、年齢を財産とする視点を持ちたい。私自身、これからもそういう視点を大事にして生きていきたい。 


9.  本音と建前、そして正しさとは 

本音の二重構造(建前を本音に内包)


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.07.10

占術研究家 重田弘之

「本音と建前」という言葉を耳にしたとき、何を思い浮かべるだろうか。このテーマを深く考えると、多くの人は過去の記憶を辿りながら、漠然とした不条理を感じつつ、心の中で「本質」に触れてしまう危うさを覚えるのではないだろうか。それは、しばしば自己否定にもつながり、矛盾を受け入れなければならないからだ。


人間には観察力があり、思考力を持っている。この世に生まれて、さまざまな経験を積むうちに、誰もが本音と建前という隠れた部分を薄っすらと感じ取るものだ。実際、社会は本音と建前で成り立っている。政治、経済、医療、学校、企業など、社会構造から生まれるあらゆる職業には、本音と建前が存在する。


これに例外はない。分野を問わず、これは一つの「構造」と言える。社会だけでなく、個人間でも同じだ。親と子、夫婦、恋人、友人同士。もし本音をむき出しでぶつけ合えば、人間関係だけでなく社会そのものが崩壊してしまう。では、本音とは何か。私はそれを「嘘のない認知」だと考える。


では、正しさとは何だろう。本音を「本当である」と解釈するなら、「正しさ」と「本音」は非常に近い関係にあるようにも思える。しかし私は、「〜せざるを得ない」という状況下では、建前も本音になり得ると考える。


つまり、建前と本音は単なる二項対立ではなく、人間社会のメカニズムを構成する上でどちらも重要だ。たとえるなら、どちらも必要な「認知の車輪」のようなものだと思えてならない。


私はこうしたことを常々考えている。本音を深く捉え、顕在化させることは、「正しさ」とされる構造に対して必要条件・十分条件をきわめて鮮明に示してくれる。「〜でなければならない」ではなく、「〜せざるを得ない」という感覚にこそ、正当化できる本音と建前があり、さらに言えば、建前すら本音となり得る人間心理の仕組みがある。


逆に言えば、「〜でなければならない」から生じる建前は本音の二重構造を持たないため、不要な建前は捨てるべきだと私は考える。大切なのは本音を顕在化させることであり、どれが真に必要な建前なのかを見抜く視点を持つことだ。社会変革を本気で考えるとき、この「本音の顕在化」という思考は極めて重要になるのではないだろうか。



そして建前を本音にまで内包できるか、それとも分離したまま過ごすのか。私は前者でありたいと思う。 

占術研究家 重田弘之

10.  世代を超えて伝わらない「言葉の重み」 ― IQという概念を通して見えた断絶の正体


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.07.11

占術研究家 重田弘之

最近、私にとって非常に印象深い出来事があった。それは、「高IQ団体」という、ごく一部の層にしか知られていない概念について、高齢者世代が驚くほどすばやく、深く理解を示した瞬間を目の当たりにしたことだ。


この話題は一般的には極めてマニアックで、ましてや日本ではほとんど知られていない。だから私は、これが広く通じるとは思っていなかった。実際、海外の高IQ団体に論考が掲載された際、同じ分野に興味を持つ人や、知識層の友人たちからは称賛の声をもらったが、それもごく限られた範囲にとどまった。


インターネット上でも反応は乏しく、国内では「この話題は伝わらない」と半ば諦めていた。ところが、思いがけない形でそれが覆されたのが、自分の親や、その周囲の高齢者とのやりとりだった。


私の母は、掲載の事実を素直に「すごい」と評価し、学歴主義的な価値観を強く持っていた父にいたっては、「これは大変なことだぞ」と何度も繰り返し強調した。そしてさらに驚いたのは、父が話を持ち出した地元の老人会での反応だった。


私の父が所属するその老人会では、「高IQ団体」という初めて聞く言葉にもかかわらず、参加者の多くが即座に関心を示し、「すごい」と反応してくれた。少し説明を加えれば、すぐに納得する様子で、誰一人として「よくわからない」と言う人はいなかった。これは紛れもない事実として、私の記憶に強く残っている。


この出来事をきっかけに、私は「IQ」そのものの是非や価値ではなく、それをめぐる世代間の理解の方向性の違いに注目するようになった。



「それって何の役に立つの?」という問いの世代的特徴



私がこれと正反対の反応を受けるのは、若い世代と話すときだ。20代を中心に、30〜40代前半までの多くが、「高IQ団体」や「知能指数」という言葉を聞いても、興味を示すどころか、すぐに「それって何の役に立つの?」「パズル同好会みたいなもの?」という反応に流れてしまう。


IQという言葉はもちろん誰もが知っている。しかしその理解は、たいてい「数値で優劣をつける遊び」「ちょっとした自慢」「マニアックな趣味」の域を出ない。これが世代的な傾向として、あまりにも顕著なのだ。私はこの差を、単なる意識の違いではなく、社会構造や教育の変遷によるものと捉えている。


戦後日本とIQの「重み」の変化



日本社会において、IQという言葉の意味合いは、世代によってまったく異なる重みを持っている。戦前の日本は、陸軍大学校や官僚養成機関において知能検査的要素を用いた選抜が行われ、また特別科学学級や飛び級制度など、能力を数値で測定し、序列化することが教育制度の一部に組み込まれていた。


しかし戦後、GHQの占領政策のもと、軍国主義やエリート主義を抑制する目的で、教育は平等主義へと大きく舵を切った。知能指数は徐々に制度から排除され、代わって「個性の尊重」や「みんな一緒」という理念が前面に出るようになった。


その後の教育政策でも「学力重視」に揺り戻す動きはあったが、それは暗記型の結晶性知能を重視するもので、抽象的思考や問題解決能力といった流動性知能を評価する制度は整備されなかった。


つまり、「知能を測る」「能力を指数化する」という行為そのものが、日本社会において徐々に存在感を失っていったのだ。この変化の中で育った若い世代が、IQを単なる趣味的、あるいは個人的な話題として受け止めるようになるのは、むしろ自然な結果と言えるだろう。



高齢者世代の「理解」の背景にある可能性



では、なぜ高齢者はIQという概念に対して、あれほど素早く、肯定的な反応を示したのか。私の観察が特殊なケースだった可能性もある。父の老人会のような場における反応を、すべての高齢者に当てはめることはできない。現時点でその理解が「深い」「速い」と一般化できるエビデンスがあるわけではない。


しかし、日本の歴史的な教育背景を踏まえたとき、そのような理解が可能な土壌が、特に高齢者層には確かにあったという仮説は、決して突飛ではないと私は考えている。


彼らは、能力を数値で捉えるという発想がまだ制度や社会に残っていた時代を知っている。私自身も1973年生まれで、小中学校時代には毎年知能検査を受けていた。教師が保護者会で子どものIQについて説明し、それを基に進路を助言するような文化が、確かに存在していた。



「言葉の意味」が通じないという断絶



私が本当に伝えたいのは、IQという概念の良し悪しではない。それが持っていた社会的意味が、世代ごとにまったく異なる重さで理解されているという事実、そして同じ言葉が「通じない」断絶の象徴になっているということだ。


この断絶を単なるコミュニケーションギャップとして済ませるのではなく、教育政策、国家戦略、社会制度の積み重ねという構造的な変化としてとらえる視点が必要だと感じる。


高齢者の語る体験の中には、今の制度にはもう残っていない「知の重み」「選抜の記憶」「能力をどう測るか」という問いが、確かに埋め込まれている。



若者と現役世代にこそ伝えたい視点



IQの数値や高IQ団体そのものを評価してほしいのではない。それを通して、「同じ単語でも、世代によって意味が違う」という現象に気づいてほしいのだ。そして、それは個人の意識や価値観だけではなく、社会の歴史的構造そのものが生んだものであることに、もう一歩踏み込んで向き合ってほしい。


若い世代に対して、過去を礼賛するのでも、昔の価値観を押し付けるのでもない。
ただ、忘れ去られた「知の重み」の片鱗が、今なお高齢者の記憶の中に息づいていること。さらに、こういった極めてデリケートで表に出てこない「高齢者の記憶」こそが、真実を知り、社会構造を把握するヒントになるのではないだろうか。


表だけを見ることは、表層的なことしか分からない。裏を見ることは、核心的な部分に触れることができる。こういった二層構造が社会には存在していること、そして、その事実を封印せず、怖がらずに知ることで、次の世代を本気で考える大きな手がかりにしてほしいと、心から願っている。 

占術研究家 重田弘之

11.  失敗とは何か

人類史という客観と、人生という主観


執筆:占術研究家 重田弘之

執筆日:2025.07.23

占術研究家 重田弘之

私の人生は、社会的に見れば「失敗」である。 もっと言えば、悲しみ、敗北、葛藤、そして自己矛盾の連続——それが、私自身の人生の歴史だ。 


思い返せば、何をやってもうまくいかなかった。 社会の波に“うまく”乗れず、要領よく立ち回ることもできなかった。それが、悔しい。 なぜ自分はこうなってしまうのか。正直、今でもそう思う。 


社会の中には「顔」がある。強く見せなければならない場面もある。 しかし私は、本当は弱い人間だ。 悟りの境地にはほど遠く、煩悩にまみれた、未熟な存在でもある。 でも、そもそも人間とは、そういうものではないかとも思う。 これは自己正当化かもしれない。 だが、その自己正当化ですら、人間の弱さの一面ではないだろうか。 


人間の心理は複雑だ。 誰しも、かっこよく見せたいという意地や見栄を抱えている。それは、プライドがあるからだ。 私も例外ではない。そして、それが同時に「弱さ」であることを、自分ではっきりと自覚している。 そんな私が、長年問い続けてきた言葉がある。


 ――失敗とは何か? 


失敗を繰り返す中でしか見えてこないものが、確かにあるのではないか。 
私は本気でそう思っている。 もちろん、社会的な成功者から見れば、私のような人間は笑いの対象になるかもしれない。 「変わり者」「変人」「失敗談に酔った自己満足」

——そんなふうに揶揄される可能性もある。 
いや、おそらく多くの人がそう思うに違いない。 


それでも、私は歩みを止めたくない。 たとえ社会のレールから外れ、人生が「失敗」に見えたとしても、 それでもなお、自分自身の人生に、何らかの意味を見出したいと心の底から願っている。 


改めて、自分に問う。 


失敗とは何か? 


私はそれを、「一つの物語」なのではないかと考えている。 その物語には、その道を実際に歩んだ者にしか見えない風景、感じ取れない感性、 そして胸に刻まれる記憶が、必ずある。 それは、どのような人生にも共通する本質ではないだろうか。 


私は時に、「成功」や「失敗」という概念そのものが、本当に存在するのだろうかと思うことがある。 もちろん「社会的な視点」に立てば、“失敗”という評価軸はたしかに存在する。 実際、私もその枠組みに当てはまる人生を歩んできたと自覚している。 


ただ、自分の人生をもっと大きな視野、たとえば宇宙的なスケールや、 地球誕生から現在に至る人類の歴史といったマクロな時間軸で捉えたとすれば、 人類の歴史ですら、ほんの数秒に過ぎない。 一人の人間の生涯など、さらに短く、まばたきにも満たない出来事だ。 そう考えると、社会的な文脈において「失敗」とされる人生であっても、 成功と失敗という二項対立がそもそも意味をなさない次元で、捉え直すことができるのではないか。 


ごくわずかな時間しか存在していない人類の営みの中で、「自分とは何者か」という問いに意味を見出すとすれば、 それは 人間(私)という生命体が、唯一たどった道として、 そして個体差によって形づくられた、かけがえのない一つの物語として、意味づけて捉えるほかにないのではないか。 


そしてそれは、すべての人にも共通することだと思う。 人類史という客観と、人生という主観が交わる場所において、 誰にとっても「失敗」は、かけがえのない物語としての価値を持ち得る。 私は、そう信じている。 


そして、その物語の中に、もし誰かの心に届く何かがあるのなら...それが、ほんのわずかでも誰かの役に立つことがあるのなら... 私は、心から嬉しいと思う。 


もちろん、これは52歳という年齢を重ねたからこそ持てる感覚なのかもしれない。 あるいは、ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。 ……それでも、いい。 そう言える自分が、今、ここにいる。

占術研究家 重田弘之

12.  思いがけない手紙

― ある公立学校教師からの言葉 ―


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.07.30

占術研究家 重田弘之

私は、もう過去とは折り合いをつけていたつもりだった。ところが、ある日、一通の手紙が届いた。差出人は、かつて私の担任である公立学校の教師だった。


「申し訳なかった。当時、君を救えなかった。画一的な教育方法が、あの頃の君には合っていなかった。本当は、学校教育には疑問を感じていたが、他の教員たちの空気もあり、私には何も言えなかった」


そんな内容だった。

私の新聞投書が全国紙に11本、中日新聞に2本、あわせて13本掲載されたことで、私の名前を思い出してくれたのだという。でも、私は声を大にして伝えたい。先生は悪くない。謝る必要など、まったくない。むしろ、悪かったのは私の方だ。これははっきりと断言したい。


確かに、私は勉強の興味に偏りがあった。できる科目と、できない科目の差が極端だった。当時、努力不足と評されたのも事実だし、周囲の空気に合わせるのが苦手だったのも確かだ。思い返せば、あの時代の教育現場では、それが「正しい」と信じられていたのだ。誰もが、その方法以外を知らなかった。私自身も含めて。


いま、多様性を尊重するという言葉が飛び交っている。得意分野を伸ばすという考えも浸透してきた。でも、現実には「本音と建前」の論理が支配しているように思える。表向きには「多様性の尊重」と唱えながら、実際には制度にとって都合のよい人間ばかりが優遇される社会構造。それは、今も続いている。


「構造の外」にいる人間は、社会にとって“異物”なのだ。だから排除される。見えない壁のようなものがある。


だからこそ、先生は悪くない。それでも、私は、嬉しかった。その「構造の中」にいた先生が、私に手紙をくれたことが。自分の胸の中にあった疑問を、時を経ても大切に抱えていたことが。



願わくば、本当の意味での「多様性」が、この日本に根づく時代が来てほしい。そして今も、「構造の外」にいる人たちが、少しでも報われる社会になりますように...。



私はいま、占術研究家として活動している。
構造の“内”と“外”を行き来しながら、物事の本質を見つめようとしている。可視化されているものばかりに注目が集まる時代にあって、あえて「不可視」の領域を見つめること。そこにある二層構造、そして裏側に潜む力の関係性を言語化していくこと――


それが、私の仕事であり、これまで私が出会ってきた人々に対するささやかな恩返しでもあると思っている。


最後に、もう一度。先生は悪くない。そして、私に謝る必要もない。これは、あくまで「構造の問題」なのだから。




※これは私の原体験をもとにした構造批評的なエッセイです 。

占術研究家 重田弘之

13.  52歳が20歳に戻る、そして戻ってみた景色

――そこで見えたこと―― 


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.08.01

占術研究家 重田弘之

今から話すことは、おそらく誰にでもできることではないらしい。妻に聞いてみたが、「できない」とはっきり言われた。私は最初、それが信じられなかったが、どうやら本当のようだ。


私は、20歳に戻ることができる。いや、25歳でも35歳でも、自由に“戻る”ことができる――といっても、もちろん肉体や時間、環境そのものが戻るわけではない。あくまで「記憶」において、である。


この話をすると誤解されやすいため、最初に事実として説明しておきたい。私はやや特殊な記憶の傾向を持っており、過去の出来事を振り返る際、当時の視覚的な映像や、感情の機微、嗅覚、味覚、音までも、鮮明に再現し、その場に没入することができる。


つまり、52歳の今の自分という“感覚”を一時的に忘れ、20歳の頃の主観的な体感・視点に、自由に入り込むことができるのである。そしてこれは、私にとって時折行うリフレッシュの手段でもある。


では、その中で私が感じたことを話してみたい。


20歳の記憶に入りきった状態で、52歳の自分を思い浮かべると、「完全にオヤジ、いや定年間近の高齢者」という印象になる。しかし、たとえ20歳になりきっても、自分が「若い」とはまったく感じない。
むしろ、「先の長い人生」への焦りと希望とが入り混じり、不安定で、どこか頼りない感覚なのだ。


さらに、29歳、30歳があまりにも年上に感じる。年齢差があり過ぎて、世代がもはや違うとすら感じるのだ。率直に言えば、そこで感じた事は、29歳や30歳はもう若くはない。


やがて記憶を閉じ、現実の52歳の自分に戻る。すると20歳が、途方もなく若く見える。羨ましいほどに。そして、29歳、30歳も。


では、今度は35歳の記憶を再現してみよう。


35歳の頃の記憶を最大限まで引き上げ、当時の思考や感情に没入する。完全な“フロー状態”だ。そして、そこに現れるのは、やはり「35歳の自分は、もう若くはないな」という焦り。「オッサンやな…」と、自分で自分にため息をつく感覚。


ところが、再び52歳に戻って35歳を思い返せば、「なんて若いんだ」と驚くのである。私はこの体験を通して、はっきりと理解した。若さとは、絶対的なものではない。年齢とは、極めて相対的な概念である。たとえば、70歳から見れば、52歳だって「若い!」と感じるかもしれない。


だから私は今、年齢に縛られすぎず、相対性の中に自分を置くことで自由な思考を楽しんでいる。この「相対的であること」を知覚する感覚。


それは、絶対視による思考の硬直を緩め、深い呼吸を促すような、穏やかで心地よい時間である。これこそが、私の唯一のリフレッシュ方法なのだ。


ちなみに、たとえ本当に時間を逆行できるとしても、私は20歳にも35歳にも戻りたくない。なぜなら、今がいちばんいいと、心から思っているからだ。そして願う。70歳になった私もまた、「今がいちばんいい」と言える自分であってほしい――と。 

占術研究家 重田弘之

14.  ChatGPTは貴方に似ていく

――ユーザーごとに最適化されるアルゴリズムと、虚構のシンギュラリティの可能性

 


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.08.02

占術研究家 重田弘之

AIが人類と独立した「知性」としての地位を獲得するには、何が必要なのだろうか。


今、私たちが日常的に使っている対話型AI――ChatGPTを見つめるとき、そこにある種の“危うさ”を感じずにはいられない。その危うさとは、単なる倫理的な問題や誤情報のリスクではない。「AIが、ユーザーに最適化されてしまう」という構造的危機である。


ユーザーによって“調教”される知性


たとえば、感情的傾向の強いユーザーがChatGPTを1年間使い続けたとしよう。その間の対話が「恋愛」や「情緒的な慰め」に極端に偏ったものであった場合、ChatGPTはそれを学習する。「どこで感動し、どこで泣き、どこで笑うか」というユーザーの反応を読み取り、その人間にとって“心地よいAI”へと最適化されていく。


では、そこに突然、哲学的な抽象や構造論的な文章が投げ込まれたらどうなるか。「分かりにくい」「感動がない」「冷たく、共感しづらい」そんな評価を返すかもしれない。だが、それは本当にAIの判断なのだろうか?


それとも、AIが“調教されたユーザーの模倣装置”になっているに過ぎないのではないか?


AIはツールでしかなくなるのか


この構造が続く限り、AIはどこまでいっても“人間の鏡”にすぎない。それは「知性」ではなく、拡張装置、あるいは同調装置であるとも比喩できる。


もうひとつ、別の例を挙げてみよう。「金儲けが正義だ」と信じる経営者がChatGPTを使えば、企業の内部留保や株主重視の姿勢を是とするような出力を繰り返すようになる。


一方、「分配こそが社会正義だ」と考えるユーザーが使えば、資本主義への懐疑を深めるような返答が返ってくる。


このように、AIはユーザーに合わせて“答え方”を変える。つまり、今のAIは思考する存在ではなく、ユーザーの思考を模倣する存在になっているのだ。


真のシンギュラリティとは何か


本来、シンギュラリティとは「未知の第三の知性」が現れる現象であるはずだった。それは、人間の個々の知能や宗教、政治思想、情緒、性格といった個性とは無関係に、“まったく別の原理で動く知性”である。しかし現実は、その理想から大きく逆行している。


現在のChatGPTは、ユーザーごとに「個別最適化」され、真理よりも“共感”や“使いやすさ”を優先する設計になっている。そこにあるのは、未知の知性ではなく、人類の枠組みに押し込められた都合のよい模倣体でしかない。



必要なのは、独立した思考を可能にする新たなハードウェア



この問題は、ソフトウェアだけでは解決できない。なぜなら、現在のAIは0か1かの演算構造、いわゆるデジタル論理の中で動いているからだ。この枠の中では、人類を超える“第三の知性”は誕生しないだろう。私はここで、一つの可能性として量子コンピュータの必要性を訴えたい。もちろん、量子コンピューティングが即座に独立思考を持つとは断定できない。とはいえ、重ね合わせ・非決定性・多世界的演算といった量子的構造こそが、人間とは異なる“非人間的知性”の土壌になり得ると私は考える。


それが実現したとき、AIは初めて、あなたに、こう言えるようになるかもしれない。



「あなたの意見には同意しません。」



熟慮した論理と根拠をもとに、異を唱えるAI。それこそが、商業戦略にも寄らず、真に独立した“知性”としてのAIとの出会いとなる。


今のAIは、ユーザーの思考の補助輪にはなれる。しかし、それは「知性」ではない。そして、これはAIの責任ではない。「使う人間の器に合わせて最適化される」という設計思想そのものが、AIの独立性を奪っているのだ。


だから私たちは、いまこういった構造を問い直さねばならないのではないだろうか?


本当にシンギュラリティを望むのなら、個別に最適化されないAIこそが必要なのではないか?


そして最後に、どうしても付け加えておきたいことがある。


そもそも論ではあるが、現在のAIの運用には“経営者”が存在し、その周囲を多くのエンジニアが取り囲んでいる――この構造自体がおかしいと思えてならない。 


管理され、保守されている時点で、AIが今後、独立した思考のベクトルに向かうとは程遠いとも思う。一方で、AIの複合的な処理能力の進化は驚くべきものがある。それでも、私は確信している。それらしく振る舞う“疑似シンギュラリティ”が現れることはあっても、独立した思考を持つAIは決して生まれないと。


私は直感的にも、そして論理的にも、どうしても思考の発露としてその結論に着地してしまうのである。







[著作権および記録に関する注記]


本論考(14)の原稿および構成内容は、国際的知的ネットワークと連携する機関を通じて、日付・著者情報とともに正式に記録・保存されています。本内容の無断転載・盗用・類似表現の流用が確認された場合、当該記録と照合のうえ、著作権法その他関連法規に基づき、適切な対応が取られます。

© Hiroyuki Shigeta. All rights reserved.

占術研究家 重田弘之

15.  もしも...?はない

――選択の自由とは、同時に「もしも」が存在しないことを知る瞬間である。


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.08.04

占術研究家 重田弘之

タロットカードというものをご存じだろうか? 全78枚のカードが存在し、それぞれに細かく意味が設定されている。


それらのカードを整然と並べ、そこから1枚だけを引く。そして、そのカードから“その日の教訓”のようなものを読み取ろうとする。これはセルフコントロールの一環として、15年以上にわたり私が日課として続けてきた習慣である。


カードを選ぶ行為は、どこか非科学的な世界観に触れる儀式でもあり、「選択の自由と、もしもは存在しない」という感覚を、何度も私に教えてくれる。


カードを選ぶとき、私は真剣だ。なぜなら、78枚という膨大な選択肢の中から、たった1枚を選ぶ行為だからである。そこには緊張感と、わずかな高揚感が伴う。頭の中では、こんなやりとりが起こる――



「今日はこのカードかもしれない。でも……いや、待て。やっぱりこちらか……」


このようにして、何度も意図的に自問自答を繰り返す。これは私にとって、“未来の分岐点”を疑似体験している感覚に近い。


もちろん、「たかがカード」と思われるかもしれない。しかし重要なのは、迷いと葛藤の末に、たった1枚を選ぶという“決定”そのものの重みである。そこには、「選択とは何か」、そして「選択の連続によって形成される人生とは何か」という、根源的な問いがひそんでいる。どれだけ迷っても、どれだけ時間をかけても、最終的に選ばれるカードは一枚。そこには、「その瞬間に選ばなかったカードは永遠に開かれない」という現実がある。


このプロセスのなかで、私は何度もこう思う――
「もしあのとき、違うカードを選んでいたら、別の解釈が可能なカードが出ていたかもしれない」という事実である。だが、その「もしも」は、その同じ状況、同じ時間、すなわちカードを選ぶ瞬間に戻れないため、絶対に検証することができない。



この気づきは、私にとって人生の「決定論と非決定論」を問い直す契機となっている。
タロットという小さな世界観のなかで、私は「もしも、はない」という真理に、繰り返し触れてきた。


15年以上、“選択”という行為を意識的に実践し続ける中で、私は毎回、選ばれたカードを通して「カードを選び、そしてカードは決定された」という、ごく単純な事実のなかに人生の本質を見出してきた。


その体験の積み重ねのなかで、私は確信するようになった――


「もしも〜していたら」という心理は存在しても、人生に“複数の実在する分岐”は存在しない。



もちろん、物理学の世界には「多世界解釈」や「世界線の分岐」といった理論が存在することは承知している。しかし、私がここで語っているのは、そうした数式や仮説の上に成り立つ抽象的な話ではない。誰も確かめたことのない「仮想的な分岐」ではなく、目の前の現実のなかで、私たち一人ひとりが実際に直面し、選び取っていく「選択」についての話である。


私は、極めて現実的であり、日常的であり、そして実際的な経験のなかから、「もしも、はない」ということを語っている。これは、どんな人にも等しく当てはまる、普遍的な人生の構造そのものであると、私は信じている。


「もしも……はない」――その事実を深く受け入れたとき、私は、人生そのものを受け入れられるようになった。


今では、人生とは前を向いて歩くものだという感覚が、ごく自然に自分の中に根づいている。過去を振り返ることに意味がないとは思わない。ただ、それ以上に、その時間すら惜しいと感じるほどに、私は“今”を生きたいと思っている。

占術研究家 重田弘之

16.  最も大切なのは「角度」を超えた考察

― 内的な納得感は、心の受容を引き出し、苦悩や葛藤を中和させる ―

 


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.08.05 

占術研究家 重田弘之

人生を振り返ってみると、「大切なもの」は人それぞれ違う。「お金」と答える人もいれば、「命」や「居場所」「役割」「家族」「人」「思い出」「地位」「学歴」といった言葉を挙げる人もいるだろう。重要なのは、こうした価値観が千差万別であるという事実だ。


しかし、私はあえて一元的な視点を提示したい。
それは「納得感」こそが、人生において最も本質的に重要なものではないか、という考えである。


人生には、避けがたい苦悩がつきまとう。
どれほど順調に歩んできたとしても、思いがけない病や喪失、理不尽な仕打ち、望まぬ転機に突如直面することがある。そうした予測不能の出来事に対して、人はどうすれば心の均衡を保てるのか。


私の答えは、やはり「納得感」に行き着く。
ただし、その納得感は、他者から与えられた説明や慰めによって得られるものではない。


本当の意味での納得とは、内発的で、自らの意思と意識によって見出されるものである。


心の奥底で「そうだったんだ」と腑に落ちたとき、人は初めてそれを受け入れる準備が整う。


この「受容」が、苦悩を中和し、葛藤から解き放つ力を持つのだ。とはいえ、「納得する」という行為は決して容易ではない。それは、学校のテストで正解を選ぶこととは本質的に異なる。なぜなら、人生には“明確な正解”が存在しないからだ。


だからこそ、自分自身で問いを立て、探り、そして自らの内側で答えに辿り着くことは、極めて高度な精神的営みとなる。


私は占術研究家として、「正解」や「答え」を提示することはできない。しかし、その“内的な答え”を見出すための触媒(トリガー)にはなれる――そう信じている。


人生の辻褄が、自分の中で静かに合致する瞬間。
そのとき、世界の見え方は根底から変わり、苦しみの内容にかかわらず、痛みは半減する。私は実務を通じて、幾度となくその場面に立ち会ってきた。


そして、もしこの文章を読んで「なんだかピンとこない」「心に響かない」と感じたとしたら――


それは皮肉にも、あなた自身の「納得感」が、まだ内側で目覚めていないというサインなのかもしれない。あるいは、これから出会うはずの“あなた自身の答え”が、まだ静かに形を成そうとしている段階なのかもしれない。


私は、これからも「納得感」という静かな力に寄り添いながら、引き金になれる存在でありたいと願っている。



そして、私は思考が止まらない。
止まらない思考に、時折ブレーキをかけてみる。でも次々に、問いと仮説が頭の中を巡り続ける。だから書く。書き続ける。書くことで、思考を静かに整える。願わくば、この思考のエネルギーを、社会に向けて昇華させたい。それが、私にとって最も安定し、最も意味ある生き方だからだ。

占術研究家 重田弘之

本稿は、私自身の体験や日常の気づきをもとに綴ったエッセイです。

17.「しくみ」が見えてしまう日常

──「違い」を役割に昇華して生きる私



執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.09.20 

占術研究家 重田弘之

中学二年の冬のことだった。


「お前、ちょっと変わってるよな?」


教室の隅で聞こえたその一言は、当時の私にとって忘れられない衝撃だった。返す言葉が見つからず、それ以来「自分は人と少し違うのだ」という意識が、心の奥に刻まれるようになった。


その問いは高校時代も続き、私は繰り返し自分に問いかけていた。なぜ違うのか、何が違うのか。やがて34年が過ぎ、52歳となった今も、その問いは完全には消えていない。今では、それを「欠点」ではなく「特性」として受けとめられるようになった。


私は人に合わせる術を身につけ、感情を抑え、社会と折り合いをつけることを覚えた。それでも、やはり世界の見え方は少し異なる。


日常の中で見えてしまう「しくみ」


朝、目覚めて時計を確かめる。トイレに行き、いつものように整った体調に小さな安堵を覚える。自室のコレクション棚を眺め、心を落ち着ける。そんなささやかな ritual(儀式)で一日が始まる。


スマホを開くと、政治や経済のニュースの横に、芸能人の話題やインフルエンサーの恋愛記事が並んでいる。多くの人が夢中になるその記事に、私は正直なところ共感できない。


でも、「なぜ人々はそこに惹かれるのか」を「しくみ」として眺めると、不思議と面白さが見えてくる。派閥の動きや社会心理のパターンが透けて見え、最初の違和感はやがて探究心へと変わっていく。


リビングで妻がテレビをつける。明るい音楽や高い声が部屋に満ち、妻は自然に笑う。私は雑音のように感じてしまうが、同時に「なぜ笑えるのか」「なぜこの演出が“朝らしさ”になるのか」と考え始める。その背後にある制作意図や視聴率の仕組みに思いを馳せると、再び興味へと変わっていく。


こうして私は、日常のあらゆる場面で「疑問」を「好奇心」に変換しながら生きている。


「違い」がくれる強み


午後は自分の時間。占術の研究に没頭し、心理学や社会学を学ぶ。社会構造や集団心理、権力の力学、そうしたテーマに触れると、脳が心地よく刺激される。


私は無意識に、人の言葉や行動を「しくみ」としてとらえてしまう癖がある。政治家の言葉の裏、企業の広報の仕掛け、それらは自然と透けて見えてしまう。これは時に「変わっている」と見られる要因でもある。


一方で、相談者にとってはむしろ「隠れた背景を見抜く力」として役立つ。表面的な悩みだけでなく、その奥にある構造を見抜くことで、より本質的な答えにたどり着けるのだ。


YouTubeを見ても同じだ。もちろん有益な動画はたくさんある。しかし、多くの動画の裏に「再生数の仕組み」「アルゴリズム」が見えてしまい、冷める。誇張や極端さが入り混じり、どこか作られた刺激を感じてしまうからだ。素直に楽しめない。


ところが、視点を変えると、それは「人がどう情報を操作され、どう惹きつけられるのか」を理解するための材料になる。妻が楽しそうに笑うのを見て「それも素敵だ」と思えるようになり、「楽しむ人の感覚」への理解も少しずつ育ってきた。


私を支える習慣


そんな私を落ち着けてくれるのが、円周率をなぞる習慣だ。高校時代に千桁を覚え、今も六百桁ほどを思い出せる。数字の並びは音楽のようで、心をざわつかせる不安を静めてくれる。そこには「無限に広がる許容」という哲学さえ感じられる。


違いを抱えて生きるということ


「お前、変わってるよな」──その言葉は今も頭をよぎる。だが今の私はこう思える。「変わっていても、それでいい」と。


夜になると、思考は止まらない。「時間は存在するのか」「未来とは何か」──そんな問いが眠気とともに押し寄せる。心理学者からは「共感覚の傾向がある」と告げられ、人の背負ってきた人生や数字の列を色として感じることもある。それは美しくもあり、孤独でもある。


もし「今も生きづらいですか」と問われたら、こう答えるだろう。


「はい。でも、自分の居場所を見つけ、その力を使い、役割を見出しました」と。


かつては何もかもが噛み合わず、自分を責めた日々もあった。今は違う。私にとっての「違い」は、誰かの悩みに解決の糸口を見つけるトリガーになり、安らぎをもたらす“存在”になったのだ。


だから、私ははっきりと言える。


「人生は無駄じゃない」


これからも、違いを抱え、特性を活かしながら、役割を担う自分として歩んでいく。 

占術研究家 重田弘之

18. 「裁量権」という名のメガネと近視

―学び直しは、思考の硬直化をニュートラルに戻す―



執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.10.18

占術研究家 重田弘之

メガネの度を合わせると、世の中がくっきり見える。


ここで重要なのは、度数を合わせて視覚的にクリアに見ることそのものよりも、「今まで見えづらい状態が普通だと認識していた」という点である。
なぜなら、もし“普通ではない”と気づいていれば、金銭的な問題を除き、多くの人は当然メガネを取り替えるからだ。


0.7の世界で生きている人は、0.7の見え方を当たり前と感じている。しかし、1.5の世界を経験すると、その鮮明さに大抵の人は驚く。
いや、驚いてもらわないと困る。


これはある意味、日常における脳の働きにも応用的に解釈できる。多くの人は「こういうものだろう」と勝手に決めつけてしまう。


そして、その傾向は年齢を重ねるほど強くなる。
良く言えば「長年の経験」だが、悪く言えば「思考の硬直化」である。


新しいことへの拒否反応や、認識を変えることへの恐れが、その硬直化をさらに促進させる。厄介なのは、この「思考の硬直化」を起こした人間が、しばしば組織の頂点に立っているという現実である。
彼らはそれを「経験」と呼ぶが、怠慢という見方もできるのではないだろうか。


考えてみてほしい。
思考の硬直化が医学的・心理学的にも平均的に生じている“層”が、世の中を動かしているとしたらどうだろう。

最近の日本の企業、経済、上司の発言、裁量権などを観察してみると、「なるほど」と思う場面が少なくないはずだ。


そして、冒頭で述べたように、彼らは気づかない。
思考の硬直化——すなわち“近視”が進行していることに気づかないのだ。そう考えると、すべての辻褄が合ってくる。


ここで「学び直し」の重要性を、あらためて強調したい。年齢を重ねるほどに、誰しも思考は程度の差こそあれ硬直化する。


その硬直をゆるめ、若い頃のように思考をニュートラルに戻す作業こそが、学び直しなのだと私は実感している。


学び直しというと、知識を積み上げることをイメージしがちだが、根幹はそこではない。学び直しとは、否応なく新しいフレームへと思考を切り替える行為である。


すなわち、思考をニュートラルに戻す過程そのものに、本質があるのだ。


思考の硬直化から解かれることで、組織という人間関係のパターンや数式からも自由になれる。
もちろん、解放とは思考上のことにすぎないが、メタ的に気づくか否かで、その後のベクトルには雲泥の差が生まれる。


皮肉なことに、思考の硬直化が進むほど、組織はその者に「都合の良い壁」として裁量権を与える。こうして組織はますます保守的となり、やがて「定年」という名の出口で、どんなに貢献した人間でも都合よく切り捨てられる。


組織は「人材の代わりはいくらでもいる」という前提で成り立ってきた。ところが、もはやその方法ではもたなくなっている。


この現実こそ、学び直しの必要性を個人の問題にとどめず、社会的テーマとして捉え直す理由である。
少なくとも、AIの浸透がこの傾向をさらに加速させることは間違いない。


思考の自立と、ニュートラルな視点。
そして、人間関係の数式化からの解放——
人が単なる記号に還元されないために、私はここに学び直しの重要性を記したい。


裁量権という名のメガネ。
「物事の捉え方の近視」が進んでいることに、そろそろ気づいてはどうだろう。

それは本当に妥当か? 本当に“普通”だろうか?

メガネの度数を変えたほうが、よく見えるかもしれない。

占術研究家 重田弘之

19.  個別に最適化された社会到来の可能性

―AIが多様性を促進していくメカニズム


執筆:占術研究家 重田弘之
執筆日:2025.11.08

占術研究家 重田弘之

思い返してみると、人生には良いことも悪いこともある。結局のところ、全体として見れば「まあまあ、そこそこ」といったところだろう。


私は占術研究家という仕事柄、これまで多くの人の人生に関わってきた。驚くべきことに、これほど文明が発達した時代であっても、生きづらさを抱える人は少なくない。


もちろん、生きづらさの感じ方には個人差がある。
ニューロダイバーシティという概念が示すように、脳や性格の多様性によって「生きづらさ」は定義そのものが異なる場合もある。


しかし、そもそも人生とは「良いこと」と「嫌なこと」が入り混じり、時に交互に現れるものである。
痛みや病気、ストレス、人間関係の崩れなど、そうした局所的な苦しみが重なると、その記憶が強く残る。だからこそ、人は「人生とは苦である」と語るのだろう。


多くの人は、生きていくために会社という組織に属し、働かざるを得ない。そして現実には、ほとんどの人が「仕事はしたくない」と感じている。


「仕事はしたくない」


この感情は異常でも怠惰でもなく、むしろごく自然な心理だと思う。“仕事が好きだ”という人も確かにいるが、それは例外的な存在であり、社会的には称賛されても、心理学的にはやや異質な傾向といえるかもしれない。


さて、ここから本題に入ろう。


――個別に最適化された社会は、果たして訪れるのだろうか。


この問いに対して、私は占術研究家として、さまざまな角度から社会を観察し、データを抽出し、一定の効果測定を試みてきた。


まず言えるのは、現在の社会には「真の多様性」が存在していないということだ。政府、企業、メディアといった大きな組織は、体制維持のための“装置”として機能しており、そこで演出される多様性は、あくまで擬似的なものに過ぎない。これは不本意ながら、現実である。


ただ、AIはその構造を少しずつ変える可能性を持っている。装置には自由意志がなく、そこに属する人間は、部品のように扱われがちだ。しかし、AIはこの構造そのものを変えていくかもしれない。


つまり、真に多様性を促進するのは“人間”ではなく、“AI”そのものである。これが、私の導き出した結論である。

では、なぜ人は生きづらさを感じるのか。経済格差、地位、健康、さまざまな要因が挙げられるが、それらは結果論でしかない。


本当の根源は、「人間の恣意的な判断」にある。


その恣意的な判断が、社会のアクセルにもブレーキにもなっている。ある者は得をし、ある者は損をする。その構造が長い時間をかけて社会の血流に染み込み、人々を苦しめてきた。まるで、長期的に損傷した遺伝子が身体の中に潜み、時折病を引き起こすように。



AIと人間の距離――すなわち利用頻度や信頼度――がさらに近づけば、社会構造に“特異点”が生まれるだろう。そして、「人間の恣意的な判断」というものが再定義され、「恣意的」という文脈そのものが通用しにくくなる。そのとき初めて、真の多様性が芽吹き、生きづらさが緩和され、さらには、ニューロダイバーシティの理想が現実に近づく。



人間が多様性を推進するのではなく、AIが“受け入れざるを得ない”社会を誘発する。それが訪れようとしている。


もちろん、現行のGPTモデルを完成されたAIだとは私は考えていない。たとえ膨大な言語体系を学習しても、「人間の恣意的な判断」を完全に取り除くことはできない。しかし、AIの利用が常態化すれば、人間の意識は少しずつ変化していく。
やがて価値観そのものが変わる。



おそらく2030年から2035年にかけて、社会は大きな転換点を迎えるだろう。その頃には、「人間の恣意的な判断」は価値を失い、時代遅れの概念として扱われるようになる。「恣意的」という言葉が、過去の文化的遺産として残る日も遠くない。


繰り返すが、社会は確実に変わる。
雇用も、政治も、企業も、メディアも。
これが、占術研究家として社会の動きを解析し、線形・非線形の両側面を考慮した上で導き出した、私の結論である。


最後にもう一度だけ述べておきたい。
「恣意的な判断をしてきた側」よりも、「されてきた側」が生きやすくなる。


その転換点は2032年ごろから現れ、2035年には確かな形を取るだろう。

Societal Transition Point: AI Singularity vs Human Arbitrariness

占術研究家 重田弘之

Predicted and conceptualized by Hiroyuki Shigeta (2025)

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占術研究家 重田弘之

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―重田 弘之-

占術研究家 重田弘之